コロナウィルスのために、たくさんのことが変化せざるを得なくなっていますが、そんな中、気になっている言葉の1つが「学業(勉強)の遅れ」です。学校が長期に休みになったことで一番心配されているのがそれだとか?「遅れ」と言っているからには何かの基準に対して「遅れ」と言っているわけですよね。では、それは何?
そこにあるのはたぶん、文科省が定める「学習指導要領」というものの存在ですね。簡単に言えば、「子どもたちが学ぶべき科目は〇〇、〇〇、…で、○年生では〇〇を勉強します」という、あれです。だいたい10年くらいおきに改定され、もちろん、教科書もそれを元に作られています。
学習指導要領のことを考えるといつも思い出すことがあります。よく説明会とかでお話しさせてもらっていますが、この機会にこちらにも書こうと思います。公立校に勤めていた頃、あれは4年生の算数に、TT(ティームティーチング)として入っていたときのことです。その日の授業は小数の筆算でした。小数の筆算は、小数点がついていることを除けば2年生でやる普通の筆算と、やることは変わりません。なので、「あれ?簡単だ!」と思った子たちがいたのですね。嬉しそうな顔で「先生!オレ、算数得意になってきたかもしれん!」と言ってきたのです。彼らはそれまでずっと算数なんて大嫌いでさっぱり分からないと思っていた子たちでした。
まぁ、実質、作業としてやっていることは2年生の算数レベルなので、そりゃ、そうでしょう、という感じなのですけど、その子たちが2年生で筆算を習った時には、おそらくその時の彼らには合っていなかったのではないかと思います。でも、もし、4年生の今、それをやっていたら「へえ!算数って面白い!」と思ったかもしれないのです。学習指導要領で全ての子に一律に決められたその進度に合わなかった、たったそれだけのことなのに、その子たちにとって、算数は楽しくないものになり、それだけならまだしも、自分は勉強ができない、莫迦なんだ、と思い込まされていったのです。それに気づいた私は、学校はなんて罪なことをしているのだろう!と思いました。
その後、私は学習指導要領とは無縁の場所で自由に学ぶ子どもたちにたくさん出会い、ときにその学び方に感心したり、「私もそんなふうに学びたかったな」と羨ましく思ったりしています。子どもたちは…というより、人間はみんな、本来は学ぶこと、新しいことを知ることにワクワクするものだと思います。それはもう、「本能」なのではないかと思います。(だから「カルチャーセンター」みたいな場所があちこちにあるのですよね。)そして、そういう学び方をする人は、やりたいと思ったことは、あっという間に習得していくことも知っています。強制されるから嫌になってしまうだけなのですよね。
何かを学びたいと思ったときに、どういう順序で何を学んでいけばいいのか、それが系統立てしてあるのは、便利だし、ありがたいことではあるかもしれません。でも、何をどんなスピードで学んでいくかという選択は、公立校でも、もっと子どもたちにお返ししていくべきではないでしょうか?
本当は、「勉強が遅れている」と言っていいのは、学びたいと思っている子どもたちに対して(学ぶことは子どもたちの「権利」ですから)学校側から十分な学びの機会を提供できていないときであるはずで、そういう意味で、今回も、子どもの側から「遅れているのでなんとかしてください」はありですけど、指導要領を絶対化して、子どもたちに「あなたたち遅れてますから頑張りましょう!」というのは違うと思います。
9月入学移行説が消えていき、なんとか「通常」に戻していこうという圧力がかかる中、子どもたちの学びの主体性が、より軽んじられていないかと心配です。子どもたちや先生たちに頑張ってもらって、過去の「通常」に戻すのですか?それよりも、大人が自分たちにとって都合のいい人間を作るための道具ではなく、子どもたちの権利としての学びを大人がどう保証していくのか?そう見つめ直す良い機会だと思うのですが、いかがでしょうか?(スタッフ
きょうこ)